藤のルーツ 第13回

開校の喜びと試練

1920年8月に札幌に到着した3人のシスターたちは、早く日本の言葉、習慣、文化などに慣れようと努力し、日本語の勉強も始まりました。翌年8月には、第2のグループである3人のシスターたちが来日しました。6人の生活となり、力を合わせて学校開設という使命に向かって全力を尽くしました。

一方、敗戦国ドイツは巨額の賠償金支払いのため、1922年には財政的に破綻状態になりました。ドイツのマルクは外国で全く無価値となり、校舎建築のためにドイツから経済的支援を当てにすることはできなくなったのです。キノルド師は一人のドイツ人神父様を、アメリカに派遣するよう手配してくださいました。アメリカから送られてくる名簿に、シスターたちが1万通ほどの手紙を送り、貴重なご寄付が届きました。

学校開設の準備として、校長予定者のSr.ヨハンナ?ベルヒマンスはもう一人と一緒に1924年5月に東京に出かけ、雙葉高等女学校や聖心女子学院高等女学校、横浜紅蘭女学校などカトリックの女学校を見学しました。2か月間、校舎?設備?授業?管理運営などについて学んだのです。創立者キノルド師は熱心に情報を集めて、学校開設のために必要な書類や校舎のことなどの準備。校舎は9月に建て始めましたが、設計はその年の春に札幌に来たスイス人のマックス?ヒンデルという建築家が、キノルド師の指導の下に作ったものです。

1924年12月24日に学校の設置認可。それから学校開設の諸準備と入学試験。受験生が十分いるかどうか心配でしたが、定員150名に318名の受験者。合格者を抑えて167名の入学となりました。

初代校長のSr. ヨハンナ?ベルヒマンスは、3月18日に虫垂炎のために入院し、手術は成功でしたが、3日後に腹膜炎を併発。4月8日の入学式も入院中で、Sr.クサヴェラが校長代理を務めて入学式挙行。病状は日ごとに悪化し、多くの人の祈りの中で、5月27日未明、生徒たちの顔を見ることもなく神様のみもとに旅立ちました。

会うのを楽しみにしていた生徒たち、そして将来この学校で学ぶすべての生徒たちのために、自分を捧げながら。Sr. クサヴェラが後任の校長になって、学校の基礎を作りました。

(左)最初の校舎の玉ねぎ塔(時計とスピーカーは後のもの)(右)創立者 ヴェンセスラウス?キノルド司教(1871~1952)
(左)最初の校舎の玉ねぎ塔(時計とスピーカーは後のもの)(右)創立者 ヴェンセスラウス?キノルド司教(1871~1952)